翻訳家インタビュー
 
谷垣暁美さんの巻

谷垣暁美さん:トップページ画像
「ル=グウィンを訳せるなんて夢のようでした」
逃げても逃げても、追いかけてきた「英語」
スランプを乗り越えて
SF好きな中学生時代
影響を受けた母の物語
訳書リスト ミニ写真集  

「ル=グウィンを訳せるなんて夢のようでした」

 ル=グウィンは、SF作家として、また児童文学の古典ともいえる「ゲド戦記」シリーズの作家として有名であり、それぞれのジャンルで大御所とも呼ばれている存在だ。翻訳家の谷垣暁美さんは、もともとSFが好きで、ル=グウィンの作品を若い頃から読んできた。そんな谷垣さんにル=グウィンの訳者として白羽の矢がたったのは、『なつかしく謎めいて』のリーディングがきっかけだった。

「ル=グウィンは憧れの作家で、まさか自分が訳せるとは思ってもいませんでした。『なつかしく謎めいて』のリーディング後、翻訳することが本決まりになったときには、嬉しいのと同時に、ル=グウィンの名前をけがしてはならないという、大きなプレッシャーを感じました。けれども実際に翻訳を始めてみると、とても楽しく伸び伸びやれました。横綱の胸を借りるというのでしょうか、自分がもっている力を全部出し切っても、相手はもっともっと大きくてがっしりと受け止めてくれる、そういう感じでした。終わったときには、もうこれでいつ死んでもいいや、と思いました」

 現在78歳のル=グウィンの創作意欲はいまだ衰えておらず、『ギフト』にはじまる、ファンタジーシリーズ「西のはての年代記」を上梓した。アニメ化もされ話題になった「ゲド戦記」からおよそ40年。新たに紡ぎだされた物語は、静かでそれでいて読んでいる者の心を深くゆさぶるすばらしい作品だ。

 谷垣さんにとって、『ギフト』の翻訳は、『なつかしく謎めいて』よりもずっと大変だったそうだ。

「『なつかしく謎めいて』は十五の独立した世界についての話ですので、それぞれについて空想を膨らませればよく、あとのことを心配する必要がありませんでした。一方。『ギフト』は『西のはての年代記』というシリーズの第一巻で、これからひとつの特別な世界を舞台に、長い物語が始まる。しかもその世界は作者のもとで、構築されている最中なわけです。どういう世界なのかを間違えると、あとあと大変なことになる(笑)」

 幸い、ル=グウィンさん本人にメールで質問することができた。ル=グウィンさんは山ほどの質問に対して、ひとつひとつ丁寧に答えてくれた。『ギフト』に登場する大暖炉について尋ねたときは、わざわざ絵に描いて、エアメールで送ってくれた。その絵は谷垣さんの宝物になり、仕事をする部屋の壁に飾られている。

 2007年8月に刊行された2作目の『ヴォイス』を訳している時は思いきって、ル=グウィンさんを訪ねることにした。2006年秋のことだった。

「ル=グウィンさんの作品では、シンプルな言葉が、深い意味を担っていて、訳語の選択を間違えると、世界全体が、ル=グウィンさんの描いている世界とは似ても似つかぬものになってしまいます。このときは、頻繁に出てくるblessingという言葉(強いて訳せば「祝福」)についてお尋ねしたくて、そのためにうかがったようなものでした。  ル=グウィンさんのお住まいがとても印象に残っています。五十年にわたって暮らしてこられたそのおうちは、手入れが行き届いていて、『ヴォイス』の世界そのもののように、生活感と清らかさの両方がありました。このおうちを見ただけで、blessing という言葉の理解に少し近づけた気がしました。

 ル=グウィンさんは、小柄な方でしたが、目にとても力がありました。実際のお年よりも、ずっと若々しく感じました。お連れ合いもお元気そうでした。とても穏やかな優しい物腰の方で、気性の激しいところもありそうなル=グウィンさんとは理想的なカップルのようにお見受けしました」

 帰国後も頻繁なメールのやりとりが続いた。

「第三巻"Powers"(『パワー』(仮題))の翻訳出版が決まったとき、今度も私がやらせていただきます、とメールすると、ル=グウィンさん、とても嬉しそうな返事を下さいました」

 谷垣さん、憧れの作家からしっかり信頼も得たようだ。

逃げても逃げても、追いかけてきた「英語」

 こうして、ル=グウィンの訳者という活躍の場を得た谷垣さん。どのような経緯で翻訳の仕事をするようになったのだろう。
 英語と日本語の関係を意識するようになったのは、高校での授業がきっかけだったそうだ。

「高校は普通の公立進学校でしたが、そこの英語の先生に、ひとり、大変、厳しい方がおられました。学識の豊かな先生で、今、思うと、当時の最先端の言語学に精通しておられたのでしょうね。準動詞(不定詞、分詞、動名詞)や名詞構文の中に隠された主語と述語の関係など、きっちり教えてくれました。英語の授業といえば、珍妙な日本語が飛び交うのが普通ですが、この先生は日本語についてもうるさく、『Some people ......』を『幾人かの人たちは……』などと、訳そうものなら、大変なことになりました」

 この先生の授業はスパルタ式で、間違えれば着席を許されず、三回続けて答えられなければ、廊下に出された、という。

「私は当時、とても内向的で目立たない生徒でした。ほかのことにはあまり意欲を示さなかったのですが、この先生の授業の予習だけは、がんばりました。一時間の授業に、三時間も四時間もかけて予習しました。先生が怖かったことも怖かったですが、心ひそかに先生と対決するような気持ちもありました。結構負けず嫌いだったようです」

 その結果、英語は得意科目になったが、好きにはならず、高校三年間が終わるころには「もうたくさん」という気持ちも生まれて、大阪外国語大学(現在は大阪大学に統合)に進学する際も選んだのは英語科ではなく、フランス語科。受験英語しかやっていないから、“聴く・話す”を要求される外大で英語はつらいだろう、という計算もあった。しかし、卒業時、フランス語を使える就職先が見つからず、結局、高校の英語教師になった。赴任先はなんと母校。そして、職員室の隣の机には件の先生が……。

「大学時代、フランス語とサークル活動にかまけて、英語をかなりサボっていた」谷垣さんは、その埋め合わせのために、必死になって勉強した。休み時間には、なりふりかまわず、隣の席の「先生」をつかまえて質問攻めした。「先生」は自分のもっている知識を惜しみなく分け与えてくれた。

 英語教師として3年を過ぎた時に、谷垣さんは結婚することになった。ところが、結婚を決めたとたん、会社員の結婚相手の海外駐在が決まった。やむをえず、教職をやめて、同行することにした。が、行く先はニューヨーク。またしても、英語……。しかも、今まで避けてきた“聴く・話す”という課題に直面することになった。

「元英語教師が、聴けない・話せないでは、新婚の夫の手前も格好が悪い(笑)」ので、大学附属の英語学校にまじめに通った。テープを聴いて書き取りをし、LLで知り合った日本語を学ぶアメリカ人学生と交換授業もした。そのかいあって、ニューヨーク市立大学ハンターカレッジ大学院に入学、ぶじ修士課程を修了することができた。現地で妊娠、出産を経て、子育てもしながら、米国での生活は6年近くになった。

スランプを乗り越えて

 帰国したのは1987年の春。関西育ちの谷垣さんだが、日本に戻ってきてからは関東に住むことになった。そしてすぐに渡米中に学んだことを活かすために、通信教育で翻訳の勉強をスタートさせた。実は勉強そのものよりも、「成績優秀者には仕事を紹介します」という宣伝文句に惹かれたのだった。

「逃げても逃げても英語が追っかけてくるというのを繰り返しているうちに、いつしか、英語が自分の一部になっていました。そして、今もそうですが、翻訳をするときの、頭の中で同時にいろいろなことを考えている、その感じが好きなんです。スポーツの好きな人が体を動かすとハイになるように、私は翻訳をするとハイになるんです(笑)。また、英語を使う仕事の中でも瞬時の聞き取りと即座の判断が求められる通訳よりも、英語と時間をかけてむきあう翻訳という仕事の方が自分にあっているのではとも思いました。それに、身内が皆、関西にいるため、子どもが病気の時などに頼りにできる人が近くにいませんでした。そういう環境でしたので、在宅でできる翻訳という仕事は魅力がありましたね」

 翻訳という目的を決めた谷垣さんの行動には迷いがない。通信教育を受講後は、とにかく仕事を得るために、あらゆる所に売り込みをかけた。通信教育を受けた翻訳学校の事務局はもちろん、雑誌の編集部にも直接電話をして、ロマンス小説や女性誌、英語学習誌の記事を翻訳する仕事を得ていった。

 数年は順調だった。ところが、1993年ごろからだろうか、雑誌の仕事が目に見えて減り始めた。理由は今もわからない。

「景気が悪くなったせいで、翻訳を外注に出さず、社内で処理するようになったのではないか、と思っています」

「仕事をしたくても仕事がこない。あせりましたが、それならば、腰を据えて勉強しなおして、ほんとうにやりたいことをやろう、仕切り直しをしようと思ったんです」

 そろそろ、かっちりとした、読み応えのある本を自分の名前で訳したかった。  続いていた仕事も整理して、翻訳学校に通学した。だが、ことはそう簡単ではなかった。授業では褒めてもらえても、仕事につながっていかない。出版社に頼んでリーディングの仕事をもらっても、数回で途切れてしまう。

「90年代の後半の五年ぐらいは、鬱屈していてつらかったですね。そんな時に講師の先生に、“あなたの訳は正確だけど、おもしろくないね”なんて言われ、ますます落ち込みました。複数の先生から言われたので、たしかに、そういうところがあったのだと思います」

 英語学習誌の教材の対訳を長くしていたせいかもしれないと思い当たった。対訳では、誤訳しないようにと、まずそこに神経が行く。間違っていると思われたくなくて、意訳も控えめになる。

「一文、一文にこだわるのではなく、作品を全体として捉えることが必要なのだと気がつきました」

 そのためにいろいろなことをした。創作の同人誌に参加して、自ら作品を書いた。テレビドラマのビデオを見て、ストーリーや構成、キャラクターを分析したりもした。ものをつくる人の気持ちに少し近づけた気がした。そんなことをしているうちに、一皮むけたのだろうか。やがて転機が来た。

 きっかけは、2000年4月から1年間、当時、版権エージェントのタトル・モリ エイジェンシーが運営していた翻訳者養成講座を受講したことだった。講師は、精力的に面白い小説を探し出し、紹介している翻訳家の金原瑞人氏。通常の翻訳の授業に加えて、月一回、シノプシス(原書要約)の書き方を指導する授業が行われ、

エイジェンシーの人が用意してくれるどこの出版社もまだ翻訳権を獲得していない原書の中から、参加者のそれぞれが毎月一冊、選んで書くシノプシスが授業の材料となった。

「見所のある本だと判断されると、先生もエージェンシーの方も積極的に動いてくださるので、私たちにとっては大きなチャンスでした」

 この講座からはのちにたくさんの翻訳書が生まれた。谷垣さんが選んだ本の一冊、ジェフリー・フォードの "The Physiognomy" も、2004年に、作家の山尾悠子氏、金原氏、谷垣さんの三者の共訳による『白い果実』として、国書刊行会から刊行されることになる。また講座の終了直後に、翻訳エージェンシーの紹介で、科学書の仕事が決まった。この本、『痴呆の謎を解く』(文一総合出版)が、谷垣さんにとって、最初のハードカバーの訳書となった。持ち前の几帳面な性分が生かせる科学書の仕事は、文芸書の翻訳と並行して、今も続けている。

SF好きな中学生時代

 今、一番、気になっているジャンルはSFだという。

「ここ数年かかわっている二人の作家、ル=グウィンとジェフリー・フォードはどちらもSF作家の範疇にはいる人なんですね。『なつかしく謎めいて』はSFだと思います。ル=グウィンの『西のはての年代記』と『白い果実』に始まるフォードの三部作は、どちらもファンタジーでしょうが、フォードの最終巻なんかは、ちょっとSFの色が濃くて、わくわくすると同時に、とてもなつかしくて……」

 なつかしい、というのは、小学校、中学校のころにSFの洗礼を受けた世代だからだ。

「最初の出会いは、名作SFを子ども向けにリライトしたもので、小学校の図書館にたくさん並んでいました。小学校高学年頃からは、フレドリック・ブラウンとかレイ・ブラッドベリとか星新一とか。中学にはいると、お小遣いで「SFマガジン」を買うようになり、ショートショートを書いて友だちと見せ合いっこしていました。SFでは、人類とか宇宙とか時間とか、そういう大きな話ができるのが好きでしたね」

 中学生の頃の話をさらにうかがってみると――

「図書委員をしていましたので、本選びについて意見が言えたんです。早川書房から刊行され始めたばかりの「世界SF全集」の全巻購入をお願いして、実現したことが、中学時代一番の思い出です」

 すごい!

「SFをずっと読み続けてきたわけじゃないし、ほんとのSFファンの方の読書量にはとても適わないので、『SF大好き』と大きな声で言うのは気がひけるんです。でも、最近のSF作品にも心惹かれるものがたくさんあるので、やりたい気持ちがつのっていて、『SF好きです』『SF翻訳やりたい』と小さな声で(笑)言い始めているところです」

 今年2007年8月30日から横浜で開催されたワールドコン(「第65回世界SF大会/第46回日本SF大会 Nippon2007」)ものぞきにいったそうだ。

「わくわくして行きました! 憧れの作家の方や翻訳者の皆さんをながめて、素敵だわぁって興奮していたんですよ」

 そういって、嬉しそうに見かけた翻訳者のお名前を教えてくださった。これまでも、自分の仕事を広げるためにアピールを欠かさなかった谷垣さんのこと、SFが好き、とあちこちで言っているうちに、SF作品翻訳のチャンスをつかむ日も、案外近いのかもしれない。

影響を受けた母の物語

 谷垣さんはSF以外のジャンルも小さい頃からよく読んでいたというが、そこにはお母様の影響がとても大きかったという。

「私の母は物語を語るのがとても上手でした。本で読んだ話や、人から聞いた話、映画で見た話などを、子ども向きに翻案してくれたのだと思いますが、母が自分でつくった話もたくさんあったみたいです。子どもの頃、お風呂の中でよくお話を聞かせてもらいました。そう、母はル=グウィンの『ギフト』に出てくるメルのような人だったんです」

 メルは、『ギフト』の主人公、少年オレックの母親だ。少年の父親と母親は別々の土地で育ち、出会った。本や物語をもたない所で育った夫に、妻は物語を語り、おもしろさを伝えていった。オレックは母親のことをこう語る。

“父は母の話を聞くのが大好きだった。母は澱みなく流れる小川のように話した。母の語りは明確で陽気で、低地人特有の柔らかさと滑らかさをもっていた”

 この文章の前後を読んでもらえると、オレックがどれだけ母を愛し誇りに思っているかが、よく伝わってくるのだ。

 谷垣さんのお母様もオレックの母、メルのように、幼い子どもにたくさんの物語を語った。
 そしていま、物語をいっぱいに吸収して成長した少女は、大人になり、今度は翻訳者として多くの読者に物語を伝えてくれているのだ。

 

インタビュアー:林さかな(2007年9月)