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自分は先頭を走っていない〜大学時代の挫折田口俊樹さんは、早熟ではなかったそうだ。 「あの娘は早熟だね」とか「この馬は早熟型だよ」とか、そういう言い方は耳にするが、いったい何をもって早熟ではなかったというのか。 早熟でなかったのは、作家になることを夢見ていた若き日の田口俊樹である。 「大学に入った頃は、すぐにも芥川賞をとるぐらいの気持ちでいましたよ。でも大学になると、地方からいろいろなやつが来ているんだよね。見た目はえらくダサイのに、やたら早熟だったりする。自分が早熟のつもりでいたのに、そんなに先頭を走っているわけじゃなかったことがわかった」 作家になりたいと思ったのが小学5年生の頃。中学時代は「007」や「87分署」など当時はやりのエンタテインメントに寄り道するが、高校時代は太宰治や大江健三郎ら、純文学作家の作品を読み漁り、文学部一本ねらいで早稲田大学に入学。文芸サークルに属して習作を書いていた。 「当時は、吉行淳之介や安岡章太郎といった第三の新人とよばれる作家たちがおもしろかった。戦争で被害者意識をもっていて、ちょうど父親の世代。なんだかだらしないイメージもあって、身近に感じられたんです。彼らの作風のような小説を書いていたかな」 だが習作を持ちより合評していくうちに、早熟と思っていた自分が決してそうではないことを知る。4年生になった田口さんは、とりあえず作家になるという夢をあきらめ、出版社への就職をめざした。 「大手も含めて全部落ちました。ある出版社からは『筆記試験に合格すれば採ってやる』とチャンスをもらったんです。で、国語と一般常識は合格点を取れた。でも英語がダメで採用されなかった(笑)」 結局、小さな出版社への採用が決まったのが年明けの2月。落としそうだった単位も何とか取得して無事に卒業、社会人としてのまっとうな人生がはじまったかに見えた。 食べていくための教員生活〜初めて知った諦めることの意味その出版社は児童劇団も運営していた。田口さんはその劇団のためにマーク・トウェインの『王様と乞食』を脚色したが、それがある意味、眠っていた表現への渇望を呼び覚ませることになる。劇団の演出家が映画製作の構想を打ち出し、助監督の誘いをかけてきた。そして田口さんは果敢にも飛びつく。 「若かったし、何でもやってみようという気になって。それで思いきって出版社の方を辞めてしまった」 入社して3年目の決断。前途に何が待ち受けているのか、それが見えないだけに胸が踊った。だが、待てども待てども一向に映画の話は前進しない。ぶらぶらと暮らす日々が一年ほど続き、田口さんはとうとう見切りをつけた。 「こりゃダメだなと思いました。こっちも食べていかなきゃならないし。それで教員試験を受けて教師になったんです。これで自分もまっとうな市民になるんだな、としみじみ感じましたよ」 20代半ばにして初めて知る「諦める」ことの意味。それは作家への道を断念したときよりも、はるかに重く、哀しかった。 が、しかし―― まっとうな市民生活にピリオド〜翻訳家としての一本立ち高校での英語教師として新たな出発をきったものの、就職活動を思い起こせば、ぎりぎりで教員試験に合格したであろうことは容易に察しがついた。まわりを見回せば、できる人間・そうでない人間が、等しく英語教師として生徒を指導している。精神的に大きな区切りを経て、教師として生きていくことを選んだ人間にしてみれば、いい加減なままズルズルと進んでしまうことはなんとしても避けたかった。 「自分に実力がないことはわかってたんですよ。同時に、自分の職業に自信を持てないのはどうしても嫌だった。だから英語をきちんと勉強しなおそうと思い、そのとっかかりとして翻訳を選んだわけです。モノを書くのは好きでしたからね」 さいわい『ミステリマガジン』の編集部に大学時代の友人がいたため、トライアルを受けるチャンスを得た。そして初めての翻訳にもかかわらず、眠っていた文才を発揮して合格。『ミステリマガジン』の短編を毎月訳すようになった。 「5年間で60本ほど訳しました。新人がそれだけの数を任せてもらえたのは、すごくラッキーだったと思います。毎月原文が送られてくるのが楽しみでね。ぜんぜん苦しくなかったし、ましてやめたいとも思わなかった」 そんな教師と翻訳の二足のわらじは11年続き、結局、教職を離れることになった。“まっとうな市民”生活に別れを告げ、一度は諦めたはずの表現者の道を歩めることは心底うれしかったという。そんな田口さんひとりを祝うがごとく、教師を辞めて迎える最初の4月に、季節外れの大雪が降った。 「ちょうど始業式の日でした。教師をしていた頃は自転車で学校に通っていたから、歩かなきゃいけない雨や雪の日が大嫌いだったんですよ。だから家の中から降りしきる雪を見ていたら、自然に笑いが込み上げてきて(笑)」 37歳にして選んだ、翻訳一本で食っていく人生。最初は本当にやっていけるか不安もあった。不安だから仕事を次々と抱え込み、結果、仕事のしすぎで首がまわらなくなった時期もある。 「でもかみさんも教師だったから、正直、ちょっと気楽なところもあったんです(笑)」 そんな田口さんも、今では名実ともにトップクラスの翻訳家となり、翻訳学校や大学で翻訳を教える立場にもなった。過去を振り返りながら随所にみせるその快活な笑いは、それまでの人生を「良し」として受け入れていることの表れなのだろう。 「運不運があるから、目の前のことをコツコツやっていても不幸に見舞われる人はいます。でも僕は、これまでの人生で積み上げてきたことに自信がありますよ」 早熟ではなかった田口さんは、今、円熟期を迎えている。 翻訳についてのQ&A――作家になるという夢を持ちながら、翻訳家という作家と似て非なる職業に落ち着いたわけですが、どう思われますか? 「こんなところなんだろうな、というのが正直な気持ちです。振り返ってみると、作家になる器ではなかったという気はします。別に卑下しているわけではなくてね。それこそ個性の問題。作家はやはり強烈ですよ。 ――翻訳家って何なのでしょうか。 「宮脇孝雄さんが『表現すべきモノを持っていないとしても、表現することに興味のある人間が翻訳家になっている』みたいなことを言っているんだけれど、たしかにそうだと思います。モトがあるから良いんですよ。ゼロから生み出すのは容易じゃない。ものすごい大変な部分は人任せにしておいて、おいしいところだけ体験できる。 ――翻訳学校で教えていらっしゃいますが、田口さんが翻訳家になりたての頃には存在しなかったこうしたシステムをどう思われますか。 「最初に翻訳学校での仕事を引き受けたときは、『教えることはできるだろう』ぐらいの軽い気持ちでした。もともと教員をやっていましたからね。でも生徒のなかから芹沢恵さんが出てきたことで、教えることも無意味ではないなと意識が変わりました。 ――学校の生徒さんは、人生の“賭け”として翻訳家をめざすような状況にはおかれていないですよね。 「賭けてみてダメならあきらめよう、ならいいんですけどね。長いこと勉強していると深みにはまってしまうところがあるようです。生徒にはいつも『2年ならあきらめられる。だから2年目から3年目に移るとき迷ったら個別に相談にのる』とは言っているんです。でもまだ誰一人相談に来ませんよ。そのまま続けるか、黙ってやめるかです。
――ローレンス・ブロックの作品とはどのようにして出会ったのですか。 「おもしろい雰囲気のニューヨークを舞台にした作品があると、編集者に声をかけられたんです。当時ブロックはアメリカでもなかずとばずという感じの作家だったんですけれど。それで『バッグレディの死』という80枚程度の中編を『ミステリマガジン』に訳出してみた。これがすごくいい作品でね。宮部みゆきさんもスカダーものではこれが一番いいと言ってました」 ――ブロックには「バーニイ・ローデンバー」シリーズもありますね。 「アメリカでスカダーものよりバーニイもののほうが先に人気が出たので、バーニイ・シリーズから訳していったんです。そのうちスカダーものも売れ出したので『じゃやってみよう』ということになったんですが、どうも最初の3作はインパクトにかける。いかにもペイパーバックらしい読みやすい作品ではあるんですけどね。だから発表順ではなく、シリーズ5作目にあたる『八百万の死にざま』を最初に出したんです。次に4作目の『暗闇にひと突き』、あとは発表順です。『八百万の死にざま』の出版を検討していたときは、まさかシリーズとしてこんなに続くとは思ってもいなかったですね」 ――大学生のときにも日本人作家の文学を読んでいたということですが、ミステリの翻訳をすることに戸惑いはなかったんですか。 「じつは翻訳を始めるまでミステリには関心がなかった。純文学にのめりこんでいた頃は、生意気にも娯楽小説をくだらないと低く見てまして。でも翻訳をやることになったのでとりあえずスタンダードといわれる作品をまとめて読んでみたら、これがおもしろかった(笑)。もちろんチャンドラーやハメットはそれ以前に読んでいましたけどね。 ――スカダー作品はトーンが暗めで、彼自身内省的なところがあります。学生時代に太宰など純文学を読んでいた田口さんにとっては、スカダーの世界は入りやすかったのではないでしょうか。 「そうですね、スカダーものは(普通)小説っぽいから。翻訳していると、その作家のリズムが自分に合う場合とそうでない場合がある。それは読んだだけではわからないんです。だから最初は気づかなかったんだけど、ブロックさんの思考と僕の考えはわりと近いのかなと感じてます」 賭博師はアル中探偵を訳す!?田口さんがギャンブル好きだという噂は、しばしば耳にしていた。 アル中探偵のミステリをギャンブラー翻訳家が訳す、もしこれが本当ならなんとクールだろうか。昼間はパチンコ屋で勝負をかけ、夜になってようやく仕事場にこもる。そんな田口さんの姿を勝手に思い描いていた。 「パチンコは今年の一月にやめたんです。ちょっと負けぐらいの感覚だったのに、収支をつけてみたらえらく負けてた(笑)。これは自分の収入にみあう遊びじゃないなと思い、東江(一紀)さんに頼んで競馬場に連れてってもらい、パチンコから競馬に鞍替えしたんです(笑)。パチンコは投資額に対する見返りが小さい。開きがなさすぎです。負けるときは一日で10万以上すってしまうのに、大勝ちしてもせいぜい10数万。ギャンブルとしての旨味がないんですよ」 非常に賢明で冷静な考え方だが、そのドラスティックな発想の転換ができるまでには、齢を重ね、いくたびもの苦い経験を積まねばならなかったようだ。 「教員時代に一ヶ月の小遣いをパチンコで使い切ってしまい、帰り道、多摩川の土手を自転車をこぎながら涙がで出たことがありました。あまりに情けなくてね(笑)。でも、子どもたちが小さいときはさすがに自粛してました。ミルク代もかかるし。それでしばらくやらない時期があったんですが、子どもたちがそこそこ大きくなってから、ふとパチンコ屋に入ってしまったんです。子どもたちとラーメンを食べた帰り道でした。千円でやめるつもりがその千円で大当たりしてしまい、そこから怒濤の13連チャン。結局、7万円以上の勝ちでしたよ。でもそれがあったために、またパチンコにハマってしまった。あの大勝ちがなければ、いま頃別荘の一建も建っていたかもしれない(笑)」 そんな反省を踏まえ、競馬は爽やかに楽しんでいるそうだ。馬券を買いに競馬場へ足を運ぶのは土曜日だけ。その土曜にそなえ、ウィークデイはスポーツ新聞の情報を読みながらあれこれと考える。何ごともとりあえずやってみるタイプなはずなのに、競馬については事前に本を読んで勉強したそうだ。 だが冷静さを見失わず楽しみに徹しようとする田口さんに、神はひとつの試練を与えた。パチンコの時と同じ“大勝ち”である。しかも今度は桁が違った。 「5千円使って払い戻しが78万2千円ですよ。当然、最高記録です。でも、それで味をしめてそのあとは大穴ねらいばかり。しばらくは全然当らなくて(笑)。最近になってようやく大穴ねらいから脱しました」 ギャンブルは日常の雑事をすべて忘れさせてくれる反面、その魔力ゆえ依存をひきおこすこともある。負けが悔しいからまた賭ける――その繰り返しが生活の崩壊をもたらすのだが、田口さんはギャンブルをこう分析する。 「ある哲学者が『ギャンブルは死の遊技である』といっているけれども、人間には“死を経験したい”というタナトスみたいなものがあるんでしょうね。 ギャンブルの怖さを知り尽くしているからこそ、楽しむだけの大人の遊び方ができる。スマートに競馬を楽しむ田口さんは、ギャンブラーとはほど遠い。賭け事をカラオケと同じ趣味の領域にきっちり留めておけるのは、はたして理性の強さからなのか。それとも一人の大人として、父親として、夫として、名のある翻訳家としての責任感からなのか。 「今の50歳の自分がどう気持ちよく生きるかですよ。だから今はギャンブルも気持ちよく楽しんでます。カラオケでビートルズを歌うのといっしょです。何をやるにしても、気持ちのよくないことは悪いことだと思ってますね」 50歳になり、精神的に非常に楽になったという田口さん。余計な色気がなくなり、たとえばベストセラーをあてたいというような気持ちも大分おさまったそうだ。 「自分にできることが見えてきたせいもあるでしょうね。これまでに積み重ねてきたものがあるから、欲も捨てられるようになったんだと思います。来年はマルクスの伝記の翻訳もやります。趣味はカラオケに競馬、それに渓流づりも始める予定。この3つがあれば老後も楽しめるだろうね」 重たいものを全て削ぎ落としたのか、心の奥底に封印してしまったのか、今の田口さんは充実していながらとにかく軽やか。じつにすがすがしい。 なぜおやじが腕まくりをするのか。それはやる気を見せるためではなく、そのほうが気持ちがいいからなのである。 インタビュアー:金田修宏(2000/8/29) |