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読書と陸上の日々多くの翻訳家がそうであるように、中村さんもまた早くから本の世界に魅せられてきた。小学校に入る頃には日常的に読書をしていたが、その当時から一番夢中にさせられたのは、やはりSFだった。 「普通の名作ものとか、ミステリも読みましたが、やはりSFが圧倒的に多かったですね」 一方でよく読んだのが百科事典だった。とはいっても、中村さんの場合は独特で、調べごとに使うのではなく、あくまでも読み物として接していた。 「家で百科事典を揃えていた時期だったので、よく眺めていました。暇な時間にぱらぱらとめくって、面白そうな項目を読んでみるんです。もともと活字なら何でもいい、みたいなところがあったので、ちょうどよかったですよ」 その習慣は小学校3年から中学校に入る頃まで続き、最後には百科事典がボロボロになってしまったという。 そして、読書と並行して、日常生活の中心になっていたのが陸上だった。中学・高校と陸上部に所属し、短距離の選手として競技会にも出場。100メートル走では県で3位に入賞したこともある。自然と周囲からも期待されるようになったが、本人は特に記録を意識することはなかった。 「高校一年くらいまでは、陸上を本格的にやってみないかと言われていましたが、そういう気はまったくなかったですね。そもそも、上を目指そうという発想自体がなかった。出身が愛知県の豊橋というところなんですが、同じ地区に全国レベルの選手がいて、そいつにはかなわないと思っていたこともありますけど、そういう方向に行かなかったのは、やっぱり本が好きだったからです」 毎日の部活で疲れ果てて帰宅すると、テレビをたまに見て、あとはひたすら読書。それが中学・高校時代の中村さんの生活だった。SFへの関心は高まる一方で、海外作家の動向などもたんねんに追うようになるが、周囲に同じ趣味をもつ仲間には恵まれず、読書に関しては孤独な日々が続いた。 「それでもクラスに2、3人は活字好きの連中がいましたから、本の話はしていましたけどね。村上春樹や村上龍が出てきた頃だったので、純文学とかミステリとかの話ですね。あとハードボイルドがようやく一般的になっていたので、そういうものも読んだりしました」 一方では原書も、この頃から手にするようになっていた。 「初めて手にした原書は、中学を卒業した時にお祝いで買ってもらった本ですね。SFのアンソロジーで、たまたま好きな作家の短編が入ってたのでそれにしたんですが、その時はさすがに読めなかった(笑)。なにしろ中学生ですからね。それからも何度も挑戦したんですが、その度に挫折していて。それが初めて読めたのが高校2年の時でした。冬休みで家にいて、例の原書を手にとって読み始めた。そしたらすんなり内容が分かって、そのまま読み終えてしまった。ストーブの前にはりついて読んでいたのを、今でもはっきり覚えています」 本の話は出来ても、本当に趣味を共有できる仲間はいなかった。そんな環境に物足りなさを感じていたが、大学に進むとそれが一変してしまうのだった。 大学で表現欲に目覚める特に勉強はしなかったが、なぜか成績は良かったという中村さんが進学先に選んだのは東京の大学だった。当然、サークルはSF研究会を選び、入学と同時に参加。ここでようやく同じ趣味の仲間を得たことで、それまで蓄積されてきたSFへの想いが一気に形となって表れることになる。 「大学のSF研のほかにも、学外のファンタジー系の読書サークルみたいなところにもいくつか参加していました。その頃から評論と翻訳を始めていて、会誌にも原稿を書いていたんですが、本がなかなか出なくて。それで編集についても自分でやるようになりました」 翻訳を始めたのは、自分の好きな作家の本がなかなか出なかったことがきっかけだった。 「たとえばSFとファンタジーという分け方があるとして、ぼくが一番好きなのはその中間あたりなんです。ところが日本ではそういうのはあまり人気がなくて、なかなか翻訳されない。それで原書を読むようになったわけです」 「初めて翻訳をやったのは大学2年の時です。大好きな作家のシリーズ作品が、雑誌に短編が載ったきりで、これまた一向に続きが出ない。それで、SFファンの集まりに出ては、その作品のことを懸命に話していたんです。これこれこうで、こんなに面白いと。そしたら、そんなに面白いのならオレにも読ませろよ、って言われて その作品を半年がかりで訳した。原稿用紙にして120枚ほどの中編で、その訳稿を中心に据えた同人誌も作っている。 雑誌作りといえば、学生時代の中村さんは、大学のSF研を皮切りに、複数のファンサークルに所属し、年に10冊近く会報を作っていたという。当時は学生のそうした活動が盛んで、中村さんも全国各地にある同じようなサークルと会報を交換することで、交友範囲を広げていった。 「特に会いに行ったりってことはなかったですけどね。会報を通じて、どこのサークルでは、こういう人がこういうことをやっている、っていうのが自然と伝わってくるんです」 顔も知らないのに、どういう趣味なのかは分かっている。そんな不思議な知り合いがあちこちに出来た。単なる趣味上のことではあったが、こうした交流が、後になって大きな意味を持ってくるのである。 勤めを辞めて、プロの道へひたすら趣味に明け暮れた学生時代だったが、大学も卒業となり、中村さんは国内最大手の印刷会社に就職する。ところが、勤めについては当初から波乱含みだった。 「東京で採用されたんですが、配属は名古屋でした。それが出社した当日に、研修だってことでそのまま京都に行かされたんです。3か月で戻ったんですが、その翌年にはまた転勤を命じられて。他にも色々ありましたが、まず会社の都合でそんな風にあちこち動かされるのが腑に落ちなかったですね」 そして、仕事そのものが激務だった。残業は月で100時間を越えることもあったという。だが、そんな忙しい毎日でもSFを読むことは止めなかった。疲れ切って帰宅すると、そのまま2時まで本を読んで、7時になったら起きて会社に行く。毎日がその繰り返しだった。 そんな生活を2年続けたが、ついに決心して退職し、再び東京へと向う。もちろん目標は、出版関連の仕事に就くこと、である。 「とりあえず翻訳の仕事がしたいと思っていたので、翻訳学校に入ったんです。ミステリとSFを教える、エンタテインメント翻訳のクラスでした。それで、しばらくはアルバイトをしながら学校に通って、3年やってダメだったら田舎に帰ろうと。そういう考えでしたね ところが二度目の東京暮らしは、当初から幸運な出来事の連続だった。 まず学生時代からのSF仲間から好条件のアルバイトを紹介されたことがある。週に数日働けば生活費にはなったので、あとの時間は翻訳の勉強や読書に費やすことができた。 そして同じく、学生時代からのSF仲間で、卒業して編集者となった知人から、訳書を出さないかという話が舞い込んできた。昨年惜しくも亡くなったアメリカの人気女流作家、マリオン・ジマー・ブラッドリーの代表作、「ダーコーヴァ」シリーズが日本でも出版されることが決まり、その一冊を任されたのである。ちなみにこのシリーズでは、当初から新人の翻訳者を起用するという方針が立てられていた。事実、現在では第一線で活躍している翻訳家の多くがこのシリーズでデビューしており、中村さんもその一人というわけである。 また更に、同人誌に発表した翻訳が、ある編集者の目に留まったことで、ベテラン翻訳家の推薦を受け、「SFマガジン」に転載される事が決まった。 以上3つの話が、すべて上京から1年ほどで舞い込んできたのである。その少し後には、「SFマガジン」で書評をレギュラーで執筆することも決まり、専門誌で連載の仕事まで手に入れてしまった。期せずして、3年も経たないうちに当初の目標を果たしてしまったことになる。 「本当に幸運なスタートでした」 とはご本人の言葉だが、もちろん、そうしたチャンスに応えられるだけの資質が既に備わっていたからこその話でもある。長年のファン活動が、ここにきて大きな武器になったのだった。 名訳を綿密に分析するもちろん、翻訳学校に一年間通った程度で、出版できるレベルの訳文が出来るわけがない。そこにはそれまでの蓄積というものがあった。中村さんが翻訳を始めたのは大学に入ってからだが、既にその頃から過去の名訳を綿密に分析していた。 「さすがに書き写したりはしませんでしたけどね。いいなと思う翻訳があったら、辞書を使って、原書と訳文を1行ずつチェックしていました」 どんなに優れた翻訳家でも、訳文ではその手の内をすべてさらけ出している。そして、それを突き止めるには、原文と対照するのが一番よい方法である。過去の名訳に学ぶという翻訳学習の王道を、知らず知らずのうちに学生時代の中村さんは実践していたのだった。 そのような独習の過程でまず気がついたのが、中学校以来たたき込まれてきた、文法中心の考え方から脱却する必要がある、ということだった。いわゆる「英文和訳」では翻訳らしい翻訳にはならない。翻訳として成り立たせるには、学校英語とはまた別のノウハウが必要になってくる。 「そういうことは、いろいろ自分で訳していくうちに分かったことですね。最初からそれが出来ていた人もいるかもしれませんが、ぼくの場合は実践で覚えていったわけです」 その後で通った翻訳学校では、実践的なノウハウよりも、実際にプロとして活躍する翻訳家に直接接することで、心構えのようなものを感じられたのが収穫だったと語る。 また中村さんは、デビューから数年ほどは下訳の仕事も経験している。下訳では、凝った表現よりも分かりやすい文章、そして何よりスピードが要求されるが、それに加えて発注元の翻訳者の訳文をいつも通り分析することで、相手の手法にあわせた訳文を渡すようにしていた。そのおかげで、作業が楽だったと先方からも喜ばれたという。 そして、プロとなった今でも、訳文の分析を続けている。その作業を通じて分かったのは、本当に優れた翻訳家であれば、原文に負けないどころか、それ以上の訳文を作り出せるということだった。 「翻訳だと、普通にやっていれば、どうしても抜け落ちてしまう部分がある。作家と翻訳者では頭の中身が一致しませんから。たとえば原文が10だとすると、翻訳はせいぜい8くらい。これは言語として日本語の方が冗長だとか、そういう事も関係してくるのですが、どうしても欠落が出る。ところが本当に上手い翻訳家だと、10を12にしてしまえるんです。だから翻訳による欠落を差し引いても、10にはなる」 「具体的にいうと、登場人物がおかしな喋り方をしていたら、そこのところを関西弁で訳してみたりとか。原文にある意味を正確に捉えた上で、さらにそういう表現上の工夫を加えることで、原文より面白いものにすることだって出来るんです」 アンソロジストという仕事現在、中村さんが山岸真さんと共同で編纂している『20世紀SF』(河出文庫)は、全6巻という大がかりなスケールで、過去の名作短編を集大成するという企画である。もともとは山岸さんのところに持ち込まれた企画だったが、途中から中村さんも編訳者として加わることになった。 このところ、SFやホラーの分野で、文庫でアンソロジーがたくさん出るようになったが、大半は海外のアンソロジーをそのまま訳したもので、日本側で編纂されるものはごく少数である。そうした状況からすると、『20世紀SF』などは例外的なもののように思えるが、そこにはそれなりの理由があった。 「日本側で作品を選んだほうが、いいものが出来るのは間違いありません。どんなに優れたものでも、海外のアンソロジーだと、いくつかは日本人には分かりにくい作品がどうしても入ってきますから。ところが、アンソロジーの編集というのは、とにかく手間のかかる作業なんです」 まず最初に、版権の問題がある。収録したい作品があっても、特に短編の場合、様々な事情で権利が取得できない場合が少なくないのだという。載せられない作品が出てきたとなれば、全体の構成から考え直さなければならない。これが海外で編纂されたものであれば、収録作の権利を個別に取得する必要はなく、アンソロジーそのものの権利を獲得してしまえば、それ以上の作業は発生しないのだ。 そしてそもそも、作品を選ぶという作業が、たいへんな手間がかかる。 「ぼくの場合、本になった分量の5倍くらいの作品を読んでいます。単に自分の好きなものを並べていけば楽なんですが、やっぱりそういうわけにはいかないので、いろいろ考えたりしますね。特定の基準を作って、偏った内容にしないよう気をつけたりとか」 特にこの『20世紀SF』の場合、複数の巻が同時進行していて、編纂と翻訳、そして解説をそれぞれ手掛けていることもあり、大変な作業になった。そのため、中村さんは一時、体調を崩してしまったほどだった。 もっとも、そうした編集的なノウハウは、学生時代に同人誌を作っていた頃から、「SFマガジン」の特集構成などを手掛けることで、徐々に身につけていったという 「もう、とてつもなく豪華な同人誌を作っている感覚ですね。自分の好きな作品を、尊敬しているプロの翻訳家にお願いして、やってもらえるわけですから」 大変な作業ではあるけれども、やはり楽しい――その口調からは、そんな気持ちがありありと伝わってくる。 そんな中村さんが昨年、初めて編纂したホラーSFアンソロジー『影が行く』は、たちまち好評をもって迎えられ、翻訳専門誌が行った識者アンケートでも堂々の1位を獲得している。 行き詰まりから新境地を開く中村さんが手掛けたロバート・シーゲルの『クジラの歌』3部作は、クジラの親子2代にわたる冒険を描いた海洋ファンタジーである。中村さん自身の働きかけで出版が決まった作品だが、その裏には意外なエピソードがあった。 プロとしてデビューし、数年が経った頃のことだが、中村さんは生活に一種の行き詰まりを感じるようになっていた。 「翻訳みたいな仕事だと、家から一歩も出ないような生活になってしまうわけです。そうすると、自分でも煮詰まっていくのが分かってきて。それで、とにかく外に出ようと思って、旅行に出ることにしたんです。もともと動物が好きだっていうこともあって、ニュージランドにイルカを見に行きました」 初めて見た海洋生物の姿は衝撃的だった。 「ボートで海に出て、イルカの群れと一緒に泳ぐという趣旨のツアーだったんですが、とにかく夢中になりました。でも、その頃は全然泳げなかったので、海面でぷかぷか浮かんでいるだけで。他の人たちがイルカと泳いでいるのをじっと見ていました。悔しかったですよ(笑)。それで、帰国してからすぐプールに通って、泳ぎを覚えました」 すっかり夢中になってしまった中村さんは、プール通いのかたわら、海洋生物を主人公にした小説を熱心に集め始めた。そうした中で出会ったのが、シーゲルの作品だったのである。 この時以来、毎年海外に出かけてはイルカやクジラに会いに行くというのが、中村さんのストレス発散法となっている。 「最初のツアーの時に、日本人の海洋ジャーナリストの人と知り合ったんです。それからは、海外取材に連れていってもらうようになって。年の半分は海外に出ているような人で、取材にも船をまるごと借り切ったりしているので、そうすると船にも空きが十分あるから、それに同乗させてもらっているんです。あと色々、環境問題のこととかも教えてもらったりとか。いわゆるエコ・ツーリズムというやつですね」 「ニュージーランド、メキシコときて、最近はバハマ諸島によく行っています。フロリダから飛行機で1時間くらいのリゾート地なんですが、ぼくらが行くのは北のあたりの、観光地からは全然離れている場所で。そこでひたすらイルカと遊んでいます。1週間くらい居て、陸にあがるのは4時間くらい(笑)。あとはずっと海の上です」 そこはリュック・ベッソン監督の映画『グラン・ブルー』の撮影が行われた場所だという。 「映画に出てくるのと同じイルカがいるんですよ。はっきりした特徴があるので覚えていたんですが、現地に行ったら本物がいて。初めて見た時は感動しましたね。あー、有名人だって(笑)」 中村さんにとって、毎年の旅行は、中学・高校時代の陸上と同じようなものかもしれない。まさしく自然と一体になれる環境に自分を置くことで、日頃のデスクワークとはまったく対照的なそうした行動が、生活上のバランスを保つ方策になっているのではないだろうか。 好きだからこそ厳しい眼を子どもの頃から大好きな本、それもSFを生業にするという、いわば願望を形にした人生を歩んできた中村さんだが、それだけに翻訳という仕事に向ける眼はあくまでも厳しい。 翻訳家を目指す人々に何か一言、とお願いしたところ、 「まず、翻訳家といってもいろいろあるということを知っておいてもらいたいですね。翻訳だけしていればいいというわけではない。たとえば、原稿料が約束通り支払われなかったとか、当初の条件と違ってきた場合、必ず出版社にクレームをつけないといけない。泣き寝入りせずに、まずとにかく権利を主張しないとダメです」 子どもの頃からずっと好きだったものを職業にしてしまう。これほど素晴らしい話があるだろうか。もちろん仕事となれば、好きだからというだけでは済まされないこともある。愛情があるからこそ、妥協するのも辛い。だがそれでも、好きなものを生業とすることで得られる喜びは、何物にも代え難いものではないだろうか。 中村さんもまた、そうした夢を実現してしまった一人なのである。 インタビュアー:寺町徹(2001年) |