翻訳家インタビュー
 
越前敏弥さんの巻

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入れ子のような経歴
一本の道筋がつけられる
ロマンポルノ
これからの展望
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入れ子のような経歴

 本の巻末やカバー袖に記されている訳者や著者略歴などを読むと、たいていは、どこどこの大学の何学部を卒業。その後、あれこれの仕事を経て現在は翻訳家として活躍云々となっている。今回はそれを前提にして、あたりまえのように、越前さんの略歴をインタビューしていくと……、ん? 大学卒業前にすでに正社員として就職? 卒業後も一般企業には就職せず、大学在学中からの仕事を続け――、など、整理しようにもできない入れ子のような経歴にすっかり混乱してしまった。どうやら、“たいていの人”の略歴ではおさまらないようだ。

 そこで、少し細かく経歴を追ってみることにした。

 生まれは石川県の金沢市。小学校にあがる時に東京へ引越したので、子ども時代の記憶はおもに東京からになっていると本人の弁。ここまではいたってふつう。引きつづき、小中学校時代もさほどの波乱はない。小学生時代の読書傾向をうかがうと、探偵物を中心に、シャーロック・ホームズ、アルセーヌ・ルパン、江戸川乱歩、そして当時、多く読まれていた文学全集など。この頃は翻訳ものを読んでもあまり頭に入ってこなかったため次第に読まなくなっていき、小学校高学年から中学校時代は、高見順、吉行淳之介、太宰治らの著作を好んで読んでいた。同い年のはとこが読書仲間であり、はとこの父親が出版社に勤めていたので本棚にはたくさんの本があった。岩波文庫も当時はよく読んだという。

 中学時代はプロ野球、パ・リーグの南海ファンになり、月に二、三回は球場に通って応援していた。当時もパ・リーグファンというのはマイナーだったらしいが、それゆえに、ファン同志の結束は固く、同じ南海ファンの同級生らと球場に通うのを楽しみにしていた。自身で野球をすることはなく、実際に体を動かしたスポーツはバレーボールとテニス。ここでも、マイナープレイを得意技とし、バレーボールでは、ひとり時間差や左手打ちをマスターし、テニスではドロップショットやロブが決め技だった。

 平凡な学生生活にアクセントがついてくるのは高校生あたりからだ。

 高校に入学してから、家のすぐそばにある駅の存在が越前さんの足を映画館に運ばせることになる。いまにいたる映画好きが、ここからスタートした。駅の改札を出た真ん前にそびえ立つ大きな看板は、ロマンポルノを上映する映画館のもの。毎日のように目にするうち、ついつい通うようになり、それからロマンポルノ以外の映画館にも毎日のように足を運び、特に市川崑監督の横溝正史シリーズに入れ込む。「犬神家の一族」「悪魔の手毬唄」「獄門島」「女王蜂」は何十回も繰り返し観て、台詞もカット割りもすべて暗記してしまった。その時の衝撃は大きく、そこから、映画雑誌も読み込むようになる。  

 小学校4、5年の時に創作にチャレンジしたこともある越前少年は、映画評論やシナリオに挑戦する青年になっていったのだ。興味も映画を起点とするようになり、寺山修司を読んだり、サティの音楽を聴くようになったのも映画から。

 そうして、映画にのめりこんだ高校生活に終止符をうつと、次のコマは大学へと進む。東京大学に7割の進学率をほこる高校だったので、特に考えもせず志望校は東京大学にしたのだが、まったく勉強せずに映画ばかり観ていたので、当然1年目は残念な結果に。予備校に通いながら、いや、通わずに年に数百本もの映画をみる生活をおくりはじめる。それだけの映画をみる元手はどうしたのか? ふつうに考えるとアルバイトを大量にこなすのだろうが、越前さんはアルバイトはほとんどせず、パチンコと麻雀で映画代を捻出した。  

 映画漬けの日々、日大芸術学部の映画学科にすすもうかと考えた浪人時代だったが、途中で女の子にふられたのをきっかけに猛勉強をはじめ、二浪で東京大学に入学。のちに東大総長になった蓮實重彦氏が大学で映像論ゼミを持っていた。映像のプロも聞きにくるそのゼミは映画好きには注目されており、もちろん越前さんもそれを目当てにしていた。  

 その後、国文科を選んだのは、楽そうだからという単純なものだったが、前述の蓮實氏からは、映像論の刺激だけではなく、仏語もみっちり教わることとなった。留年を重ねた末の単位修得という必死の目標があったこともあるが、1日10時間の学習を半年続けたことにより、当時は英語よりも仏語の方がよくできたと越前さんはいう。

「もし、学科を決めるのが蓮實先生から仏語の授業を受けたあとだったら、国文科ではなく仏文科か教養フランス科を選んだかもしれません。集中して学んだこの時にヨーロッパ言語を取得するコツをつかんだ気がします。ヨーロッパ言語を学んでみると、英語は本当に難しい言語だと感じますね」

 映画にまみれた学生生活は4年で終わらず、自主映画の制作資金を稼ぐためにゲームセンターと塾で働き、大学在籍中に塾の正社員となった。そのため週5日は仕事にとられ、次第に映画に時間がとれなくなっていく。また、塾のノウハウを取得してからは、塾の自営も手がけはじめた。それ以外にもいくつかのアルバイトを並行していたので、必然的に映画からは遠ざかっていった。仕事をしながらの長い学生生活だったが、27歳の時にようやく卒業。企業に就職という、ありきたりの進路ではなく、卒業後はそのまま学生の頃から続けていた塾の仕事などを並行しながら、留学予備校のカウンセラーも仕事のひとつにしていった。

 人に教えるという職業では、自分自身の勉強も怠れない。塾の講師とともに、留学予備校のカウンセラーでは、自身がTOEFL、GRE、GMATなどの問題を生徒用に翻訳し、一日平均5枚から10枚の問題をつくっていった。いま思い返すとこれが将来、翻訳を職業とするためのトレーニングになったという。

 こうして忙しく過ごしていた日々に突然の病魔が襲った。
 1994年、脳動脈瘤が突然破裂。いわゆるクモ膜下出血である。

 幸いなことに、後遺症は残らず、2、3か月の入院生活のあと、社会復帰することができた。大病がきっかけとなって、この世に何か残したいという気持ちを強くもつようになった越前さんは、これからの自分の仕事についての方向を考えはじめた。そして選択したのが翻訳だったのだ。

 映画制作に関わるということもちらりと考えたが、塾の仕事などで遠ざかっていた期間が長く、ブランクがありすぎてはダメだと判断した。選択肢の中には小説創作もあったというが、何年にもわたって大量の英文を読んできた経験を生かして、文芸翻訳をやるのがいちばん現実的な道だった。

一本の道筋がつけられる

 翻訳を仕事として考えた時には、4~5年ほどの準備期間でプロとしてやっていけるようになるのではないか、という目算があった。さて、実際はどのくらいかかったのだろうか、ここでも順を追ってみよう。

 退院した1994年の秋、フェロー・アカデミーの文芸翻訳基礎コースを受講。その後、田村義進氏のクラスに入る。このクラスに3年在籍し、半年すぎたあたりから、リーディングや下訳を頼まれるようになった。1997年の春に東京創元社を紹介され、数か月後にトライアルに合格。この時の編集者に厳しく鍛えられ、翻訳者としての洗礼を受けることになる。デビュー作品が刊行されたのは1998年のこと。『ディナーで殺人を』(ピーター・ヘイニング編)という食にまつわるミステリ短篇集で、上下巻のうち下巻に所収された「競売の前夜」(ジョルジュ・シムノン)を担当した。この作品は仏語から英語へ翻訳されたものの重訳だったが、訳していくうちに、英訳に問題が多数あることがわかり、最終的には、学生時代に培った仏語を活かして仏語からの翻訳となった。

 そして自信満々で提出した訳文には、1頁あたり30~40か所に及ぶチェックが入っていた。

「訳文をチェックする能力にすごいものがある編集者でした。メモ書きを見ると、こちらの訳文が99点でも、それを100点にさらに近づけるにはどうすればよいかと気づかされるようなことばかり。安い著作権料でいい作品を見出す目利きでもありましたね。とにかく鍛えられました」

 こうしてみると、さまざまな紆余曲折を経た人生が、翻訳という道を決めてからはすべて活かされ、ひとつの太い道になっていることがよくわかる。特に留学予備校では、広いジャンルのものを英語で読みこなし、それがいまの仕事に役立っているという。

「自然科学、社会科学、人文科学など、あらゆるジャンルのものを読んだことが本当に勉強になりました」

 仕事の中心が翻訳にシフトしながらも、塾のほうも数年前まで続け、現在もフェロー・アカデミー講師の仕事をしている。教える仕事はお好きですかという素朴な疑問に、

「ええ、教えるのは昔もいまも好きですよ。
 教えること、説明することによって、自分自身のその内容に対する理解も深まりますしね。
 難解な用語を駆使して小むずかしいことを言うよりも、それをやさしいことばで説明するほうがはるかに高度だし、訓練も必要です。その意味で、自分にとっての翻訳は、教えることの延長だったのかもしれません」

 ちなみに、映画が好きであれば映像翻訳を考えなかったのだろうかと水を向けてみた。

「まあ、映画が好きなので、少し勉強してみたけれど、リスニングに自信がもてず、その道を選びませんでした。映像翻訳はスクリプトだけでは得られない情報も多く、しっかりしたリスニングができないと仕事にならないと思ったんですね」

 単独での訳書が東京創元社から出版されたのは、短篇集が出た次の年、1999年のことになる。ロバート・ゴダードの作品で、『惜別の賦』と『鉄の絆』だ。当初の予定通り、翻訳に焦点をしぼってから5年めのことだった。ただ、単独訳でデビューしたからといって、生活できる収入には届いていない。この間も塾講師など二足の草鞋をはき続けていた。  

「結婚して、子どもも一人目を授かったところで、稼がなくちゃいけなかったんですよ。翻訳一本では生活できませんでしたね」

 デビュー後は早川書房と東京創元社の2社とのつきあいが数年続いたあと、ミステリ関連の忘年会などで人脈を広げた。他の出版社の編集者とも仕事がはじまり、訳書の数も増えていく。

 訳書が出るようになってから、「これぞ!」と思う作品は、自ら積極的に幅広く献本するなど、営業活動もするようになるのは、ドロンフィールドの作品『飛蝗の農場』(2002年刊行/2003年度《このミステリーがすごい!》1位)とダン・ブラウンの『天使と悪魔』(2003年刊行)の2冊と出会ってからだ。特に『天使と悪魔』は、言わずもがなの『ダ・ヴィンチ・コード』でブレイクする前のダン・ブラウン作品。越前さんは大プッシュするものの、この時の初版は1万部。ブレイクするにはあと1年待たなくてはならない。

 翌2004年、『ダ・ヴィンチ・コード』刊行。最初は『天使と悪魔』同様、上下各1万部程度だったものが、あれよあれよと売れはじめ、毎週、上下3万部ずつの重版となり、この増刷は2か月続く。本国では700万部の売れ行きだった『ダ・ヴィンチ・コード』は、邦訳が日本発売に先駆けること1か月前に、ニューヨークの紀伊國屋書店で発売された。現地では、大ヒット作品を日本語で読めるとあって、紀伊國屋での売れ行きは上々。この出来事は日本にもニュースとして配信されたほどだ。

ロマンポルノ

 現在は翻訳を柱として、フェロー・アカデミーの講師もされている越前さんだが、実は最近ふたたび映画の世界にも関わっている。映画――特にロマンポルノのジャンルに強いということで、その方面での評論や対談などを頼まれることが出てきたのだ。「ミステリマガジン」11月号(早川書房/2007年 No.621)に掲載されたコラム「翻訳者の横顔」によると、ロマンポルノの認知度を高めるべく、年に一、二度は、おもに同業の女性を集めて名作ロマンポルノ鑑賞ツアーの引率者にもなっているとのこと。ちなみに、卒論のテーマはロマンポルノだったという噂の真相をうかがってみると――

「正確には、卒論は市川崑監督『細雪』を中心に書きました。国文科ですし。市川崑監督も好きな監督のひとりです。ロマンポルノは卒業演習でとりあげたんです。卒論でロマンポルノでもよかったんですが、担当教授がその内容ではわからないと言うので(笑)。卒業演習では、いどあきおという、ロマンポルノの脚本家をテーマに仕上げました」

これからの展望

 翻訳家として大いにのっている今、これからの仕事の展望は……。

「今は少し仕事を絞り込むようにしています。これまでに手がけてきた作家の翻訳をまず優先させて、なるべく新人作家は引き受けないようにしています。訳す時間には限りがあり、ぜったいに訳文のレベルを落としたくないので、作家を増やせないんですね。持ち込みは今もしているのですが、新しい作家ではなく、すでに自分が何冊か訳している作家の作品が中心です」

 ふたりのお子さんに、たくさん読み聞かせをしているうちに児童書への興味もわいてきた越前さん。持ち込みには児童書もふくまれている。「冒険ふしぎ美術館」シリーズがそれだ。原書はドイツ語で、本国ではかなり売れている美術シリーズ。フルカラーで大判の原書だが、日本で同じ形で刊行するにはさまざまな条件でハードルが高く、かなり工夫された形で朝日出版社から2冊刊行された。3冊目は、なるべく原書に近い形でという越前さんの企画を受けいれてくれた版元から、刊行予定となっている。

「装いもあらたに刊行されるので楽しみにしていてください。このシリーズは子どもはもちろん、大人も夢中にさせる魅力があります。この本が刊行されたあかつきには、自分でもしっかり営業活動をしようと思っています」

 これからの訳書や越前さんの活躍にますます注目したい。

 

インタビュアー:林さかな(2007年9月)