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読書する読書嫌い――小学校〜大学時代「本を読んでいたのは小学校までですよ。それ以降、読書の時間はほとんどなくなりましたね」 小学校時代、家にあった世界少年少女文学全集を何度も読み、筑摩書房の日本文学全集の3分の1は読破したという東江さんが、ごくふつうの文学青年に成長しなかったのには理由がある。東江さんには、うらなりの文学青年には相応しくないパワーがあった。野球をすればノーコンながら力強いボールを投げたという東江少年は、小学校6年のときに陸上競技に出会い、その力のはけ口を見つける。こうして、読書の時間は体を鍛える時間へと取って変わられる。 高校に入学すると、本気でインターハイ出場をめざすようになる。練習にもいっそう熱がこもった。
「起床は5時半。ランニングしたあと、1時間ぐらい早く登校して補強運動をやるんです。放課後は自主トレをしてから部活の練習です。帰宅は夜の8時頃。夕食を済ませたらもう寝ますよね、当然」 こうして日々、肉体を酷使していたのだから「読書はほとんどしなかった」という東江さんの言葉に嘘はないだろう。 だが、鍛えられたアスリートの肉体にも、文学少年の心はしっかり生きていた。萩原朔太郎や室生犀星らの詩集なら、時間を気にせずに読めた。夏目漱石はちびちびと読んでいた。そして短時間で読める、というより短い時間しかつき合えない作家もいた。 「大江健三郎は読みましたね。読書時間が取れなくなると、古典を読もうという余裕がなくなってしまって、それで前衛に走ったんです。読んでいるとあっという間に疲れちゃいますからね。大江健三郎をきっかけにして、眉を寄せて読むような本しか読まなくなった。そういう本だと、必然的に1日二十分程度で足りるといいますか。その意味では、本嫌いになっていったんです」 “読書する読書嫌い”という矛盾した状態は、その後、27、8歳まで続くことになる。進学した北海道大学では英文科に籍を置くものの、陸上への熱意は増すばかりで、授業は二の次。そして読む本は英文学のテキストではなく、やはり前衛小説。 「大学時代はヌーヴォーロマンを読みましたね。体系的に読んで蓄積していくような読書は、時間的に無理なんです。ミステリ・ファンとか小説好きとか、そういうポーズを取れなくなった。だから、人が読まないものを読もうという気持ちがあったかもしれません。でも前衛とか実験小説みたいなものを読んでも楽しくはないんですよ」 卒論はサミュエル・ベケット。選んだ理由は「人がやらないから」。他の学生が取りあげるようなオーソドックスな作家を選んだのでは、蓄積という点でかなわないと判断した結果だった。当然、ベケットは読んだ。 「ただし翻訳でね。卒論は英語で書くので、一応原書は買いましたよ。引用するときに必要なので(笑)」 東江さんが原書を1冊読み通すのは、翻訳業界に入ってからである。 ワーカホリック・ランナーの決断――アルバイト・会社員時代7年間のゆったりした大学生活を終え、東江さんは英会話教材のセールスをしている会社に就職した。この会社を選んだ理由はただひとつ、陸上だった。 「陸上の練習時間が取れるような会社を探したら、10時〜5時で週休二日というのはここだけだったんです。英会話教材の開発という業務内容もおもしろそうだなと思って。でも入社してみると、セールスの仕事だった。しかも完全歩合制で、夕方5時どころか夜になっても帰れなくて」 結局、5か月で辞めた。この会社に勤めている間、東江さんが思うようにできないことが陸上のほかにもうひとつあった。翻訳の通信教育の課題だ。 翻訳学校の通信教育は大学卒業とほぼ同時に始めていた。だがプロになることを第一としていたのではなく、成績が良ければ仕事がもらえるという程度にしか考えてはいなかった。 陸上競技ができて翻訳の課題もできるなら、あとは生活していける程度に稼げればいい――東江さんはそう考え、アルバイトを始める。工事現場での肉体労働は気持ちが良かった。給料も良かったし、きっかり夕方5時には仕事も終わる。だが、あいにくその年は雨が多く、仕事のない日が続いた。そこで1ヶ月程度でこの仕事に見切りをつけ、印刷所でのアルバイトを始めた。ところが、東江さんの真面目さが裏目に出てしまう。 「仕事のほかに目標があるのだから、定時で帰ればいいのに、残業があるというとすぐ飛びついてしまうんですよ。なにせ時給500円なのに、月に30万円稼いでいましたから」 当然、陸上競技も翻訳の勉強もできなかった。だが、その働きぶりを認められて正社員に登用され、それを機に仕事を定時で引き上げるようにした。以後8ヶ月、仕事とやりたいこととのバランスがほどよくとれた生活が続いた。 そんなある日、東江さんは突然、社員からアルバイトへの降格を申し出る。 「とても天気の良い日だったんですが、急に働いているのが空しくなって。その頃はもう幹部コースを進むような仕事を求められるようになっていたので、9時から5時という定時枠を守るのは無理でした。だから定時枠を守るために降格してもらったんです」 もう残業もしなかった。仕事が終わると、千駄ヶ谷の競技場に直行し、陸上の練習をした。そんな理想に近い毎日を送っていると、競技場であるアスレチッククラブに声をかけられた。個人なら試合の出場機会はとても少ないが、団体に所属すれば年間5、6試合は保証される。また一歩、理想に近づいたように見えた。 だがその翌日、東江さんは交通事故に遭ってしまう。3カ月の入院生活を余儀なくされ、会社に復帰したときには、ある決断をしなければならなかった。 「足の複雑骨折だったので、陸上競技を続けるのはほぼ不可能でした。それなら、翻訳にもっと力を入れなきゃと思った。でもそのときすでに28歳ですから、通信教育を続ける余裕はないんです。そしたら、たまたま友人が下訳の仕事を紹介してくれたので、通信教育は止めました。いきなり現場に飛び込んでしまおうと。すぐにもプロになれると思っていたんですね」 決定的な出会いの数々――下積み時代、そして現在へ下訳生活は2年間続いた。友人に紹介された師のもとで、とにかく訳しに訳した。だが報酬はなかった。 「どんなに訳しても一銭ももらえないんですよ。はじめの1年はそれまでの貯金でなんとかなったんですが、それ以後は何人かの友達に借金しまして。陸上のつながりはおもしろくて、ひとりフラフラしているのがいるとみな金を貸したがるんですよ。集まって飲んでも、『勘定はいいよ』と特別扱いでしたしね」 2年目の後半には、師に紹介された出版社でドリルの編集を始めた。社員が次々に辞めていき、それまで7、8人でやっていた仕事をひとりでやることになった。泊まり込みの生活が始まり、印刷所でのアルバイト時代を思わせる働き詰めの日々が続く。だが、ひとつ大きな違いがあった。下積み時代は恵まれないのが常である。 「その会社はお金がなくて、月給が10万なのに、その10万さえまともにもらえなかった。給料袋に入っているのは5万円と『ごめんね』と書かれた手紙(笑)。その頃は本当に食べるものがなくて、ごはんに塩かけてという世界です。その米も、陸上の後輩の差し入れなわけです」 そして下訳生活を始めてちょうど2年が過ぎたとき、下訳を紹介した友人はこうした極貧生活の責任を取り、東江さんの妻となった。しばらくの間、奥さんが働き東江さんが主夫をするという生活が続いた。 3、4ヶ月が過ぎた頃、東江さんのもとに大学の陸上部のOBから電話があり、会うことになった。その先輩とは、スキーヤーの三浦雄一郎氏の弟さんで、たまたま一番近くに住んでいた東江さんに声をかけたらしかった。 「『何をしてるんだ』と聞かれたので、翻訳をやっているがいま仕事がないと答えたら、版権事務所のタトル・モリ・エイジェンシーに連れていってくれたんです。三浦雄一郎さんの本のドイツ語翻訳権を扱ったのがタトルで、そのとき先輩が雄一郎さんのマネージャーだったので、森社長と面識があったんですね。でもいきなり社長室に連れていかれても、こっちは緊張してなにも喋れないですよ。そんな僕をよそにどんどん話が決まって、森社長がサンリオに電話してシルエットロマンスを1本決めてくれたんです」 ロマンスの仕事は月1本ぐらいのペースで何冊か続いたが、もっと手応えのあるもの訳したいと感じていた東江さんは、森社長の勧めでタトル専属のリーダーになる。そして半年が過ぎた頃、森社長と売り込みの計画を立てた。
「サンリオとはロマンスで仕事をしてましたから、まずサンリオSF文庫あたりから始めて、徐々に階段昇っていって最終的には新潮文庫へ、という3年計画です。ところが、2冊目の本の持ち込み先をタトルで相談していたとき、新潮文庫の編集者が来たので、直接その場で渡したんですよ。そしたら、それが決まってしまって。そのあとは、集英社2冊、サンリオ、産経出版と、1週間で4冊次々と決まりました」 東江さんは半年でその4冊を訳した。この間、収入は途絶える。ロマンスのときは原稿を上げたその翌月に支払いがあったが、ふつうの出版のサイクルになれば本が発売になるまでお金は入らない。半年分の生活費を確保するため、方々から借金し、双方の親にも借りた。親に泣きついたのは、これが初めてだった。 「借金を返すために、とにかく働きましたね」 働きすぎてしまうのは、どうやら東江さんの性分らしい。この4冊を訳している間にも、次の仕事が4、5冊決まった。以来13年間、そういう状態が現在まで続いている。7、8冊以上は常に抱えているという。 「一度でいいから、残りの仕事ゼロというのを味わってみたいですね」 そう言った東江さんだが、すぐにこう訂正した。 「ゼロより、残り1かな」 ジャンルを限定しないわけ東江さんはロマンス翻訳でプロデビューし、これまでミステリ、文学、ノンフィクション、お笑いと、様々な分野の本を手がけてきた。翻訳家として確固たる地位を築きながら、あえてジャンルを限定しない理由は何だろうか。 「ひとつには、専門がないというコンプレックスがありますね。ミステリを集中して読み出したのも、下訳の仕事を始めてからでしたから。だからいろいろ訳すのは少ない読書量をカバーするためのごまかしというか、変な器用さというか」 もちろん、本心はもうひとつの理由にあるのだろう。 「ただ、専門がない分、勝負できるとすれば日本語の工夫ですよね。日本語を極めたいという思いがあるから、1度やってしまったジャンルの作品はもうやりたくないんです」 自分との組み合わせでどんな日本語が出てくるのか。新しい作家と出会ったとき、東江さんはその点に一番興味を感じるという。 「原文がひねくれていたり、訳出するのに工夫が必要な本、たとえば、お笑いやクセのある作家が書いた仕掛けのある文学は、やりがいがありますね」 専門的な読書の蓄積を武器とするのではなく、あくまで日本語の工夫にこだわるところに、翻訳家というより表現者としての東江さんの姿が見えてくる。東江さんに専門ジャンルはいらない――と思ったが、そうとも言いきれないようだ。 「お笑いだけは胸を張っていられるかな、ほかにやる人もいないしね。お笑いだけ訳して生活していけるんだったら、それ専門にやりますよ」 やはり、デイブ・バリーの訳者は東江さん以外に考えられない。 翻訳家という職業についてもし交通事故で足を骨折しなかったら、陸上を断念しなかったら、東江さんは今、何をしているだろう。会社員を続けているのか、それでも翻訳家になっているのか。それは神のみぞ知るところだが、そもそも翻訳家になることは、東江さんにとって絶対的な目標ではなかった。 「翻訳はわざわざ目指してやるものではないと個人的には思っていました。ものを書くという世界の中で、そういう特化した能力がある人間が、たまたまやるものだとね。だから自分が向いているなんて、この世界に入ったときには思ってもみませんでした。よくよく考えてみると、僕は表現するという部分だけが好きなので、翻訳のようにテーマを人からもらってくるというのは非常に有り難いんです。最初は仕方なく翻訳をやっていたのに、むしろそういうシステムでこそ自分が活きるということが次第に分かってきたんですね」 東江さんは自らを「本好き」あるいは「読書家」と呼ぶことはなく、本や読書に対してある程度の距離を置いている。そんなやや退き気味の姿勢が、翻訳家という職業に対しても感じられなくもない。「表現するという部分だけが好き」という言葉を聞いたので、そのあたりを探ってみる。 「チャンスがあったら、ライターにはなっていたかもしれないですね。もしそういう口があったらの話ですけれど、翻訳よりもそっちに飛びついたかもしれない。翻訳はどうしても英語というのがね。苦手だし嫌いだったので。でも仕方ない選択だったんですね、英文科出たばっかりに(笑い)」 だが翻訳が絶対ではなかったからこそ、プロになった今、東江さんは翻訳の魅力を味わっている。 「駆け出しの頃はカンで訳していたんですけれど、カンばかりに頼っていていいのかという疑問をずっと抱えていたんです。それが翻訳学校で教えるようになって、訳出するときの基準を少しずつ体系化できるようになった。そして、その基準を実証するような仕事をして、その仕事から体系をより明確にしていく。こうしていけば、ひょっとすると揺るぎない翻訳というものができるかもしれないと思ったりもしますね。でも、あまり考えすぎると頭でっかちな仕事をしてしまうので、動物的なカンも残してはいます。翻訳は、やっていておもしろい作業なんですね。どんどんおもしろくなる。できれば、どうしておもしろいのかも自分なりに見つけて伝えたいと思っています」 翻訳家のジレンマ自分の訳書がベストセラーになったとき、それは翻訳家にとって金銭面の成功ではあるが、評価されるのは内容そのもの、つまり原作者だ。では、翻訳家はどこに仕事の喜びを求めるのだろう。 「難しい問題ですよね。たとえば、書評で自分の訳書が翻訳がいいと評されたりすると嬉しくもあるんですが、ただ一般の読者が翻訳がいいと感じた場合には、それは翻訳が目立ちすぎているということなんです。そうすると翻訳家の立場としては、あまり良くないのではないか。一番いい翻訳というのは、原作者と読者が直に対面できるような、つまり訳者が完全に消えてしまう翻訳だと思うんです。ただその消え方も、原文の枠組みを残して消えてもいいのか、どの程度自然な日本語にするのか、それは人それぞれなわけですよ。翻訳があまり気にならないというのがいい評価だと思うんですが、ただ表現という行為に携わっている身としては、この表現いいなと言ってもらいたい気持ちもあるんです」 かくいう東江さんも、駆け出しの頃は編集者に認めてもらいたいという気持ちを抑えきれず、訳者が前面に出ているような翻訳をしていたという。 「目利きには見え見えですよ。今になって考えると、とても恥ずかしい。自分を抑えられるようになったのは、10年過ぎたあたりからでしたね」 本の表紙に原作者とともに名を連ね、原作者と同じように文章表現をしながら、目立つことは許されない。そんな翻訳家という立場を、東江さんはどう思っているのだろう。 「原作者と対等ぐらいの気持ちでいないとね。そうでないと、原文の枠組みを残したままの訳になってしまいますから。だから日本語に関しては、訳者は100パーセント責任を持つ。その意味では、半分以上作者のつもりですけれどね。でもその結果、訳者の地金が出てきたりすると、それは恥ずかしいということになる。僕はいろんな作家の文章に対して消えてみたいんです。訳者が消えているということは、原作者を自分の中に取り込んでいるということですから。その意味では、訳者は得だなと思いますよ。いい原作に出会えば、自分の中の何かが豊かになるわけでしょう。それにある程度満足を感じるというのが、翻訳者向きなんですよね」 翻訳学校講師・東江先生の胸の内「講師を始めた頃のクラスには、とにかくプロになりたいという生徒ばかり集まっていたので、望みのある生徒ならば、できるだけ早くその才能を開花させて送り出してやろうと考えていました。ですから、極めて技術的に教えていたんです。でもこの仕事を辞めて、1年後に別な学校で教え始めたら、生徒の種類が違うんですよ。もちろんプロ志望なんですけれど、翻訳を勉強していること自体に価値を見いだしている。クラスで自分の訳を発表して、人からいろいろな意見を言ってもらう。そこに、ひとつ完結したものが感じられたんです。プロになるという大きな夢とは切り離してね」 この業界に飛び込むまで、翻訳という仕事に過度の憧れを抱かず、絶対視もしなかった東江さんらしい言葉だ。これはまた、東江さんが生徒全員に気を配っていることの証しでもある。 「クラスのことや、生徒1人ひとりのことで悩みますね。かなり考えます。文芸翻訳というのは本来はマンツーマンで教えるようなものでしょう。だから授業でもなるべくマンツーマンの部分を大きくするようにはしているんです。クラスで授業をすることの意味は大切にしてますが」 どうすれば生徒全員がより上達する方向へもっていけるのか、翻訳しているときにふと考え、書き留めたりすることもある。 「こういうことを言えばわかりやすいかな、とかね。だから、常に翌週の授業のことは気にしてます。予習と復習に1日あてて、学校で教えて、その翌日の午前中までクラスのことを引きずってますね」 翻訳家の休暇「先週の木曜までは、8ヶ月休みなしという状況だったんですよ」 開口一番飛び出したこの言葉。やはり東江さんはワーカホリックなのか。 「気分転換も仕事の時間の中に組み込まないと、今はやっていけない。朝起きてから夜寝るまで仕事というのは仕方ないんです。もう、あきらめました。だから、その中で息を抜くという感じです。100パーセントで突っ走るのではなくてね」 陸上に青春を捧げた東江さんらしい、長距離ランナーのような発想だが―― 「翌日もまた朝から夜まで仕事ができるように、小出しにガス抜きをするんです。雑誌を拾い読みしたり、エディタの上に麻雀ゲームを立ち上げてみたり」 休暇とは程遠い話になってしまった。そして、東江さんは楽しさをかみしめるように、こう続ける。 「それから通信ですね。ニフティにアクセスすることだけが楽しみでね。自分でパティオを持っていて、ほかのパティオにも参加しているんですが、パティオで発言があったりすると、それはもう完全な気分転換ですよ。手紙が来たようなものですからね。仕事の手が止まると、ついついニフティにアクセスしようとする自分に気づいて、前回のアクセス時間調べるとまだ30分しか経ってなかったりするんですよ(笑)」 息抜きもコンピュータに向かい合ったまま。こうなると質問するのもはばかれるが、読書する時間などあるのだろうか? 「純粋な楽しみの読書は時間的に難しいですね。読みたい本はたくさんあるんですけれど。時間が限られているから、どうしても次の次あたりの仕事に役立ちそうな本に手が伸びてしまうんです。今は日本の女性作家の官能的な作品をぱらぱらと拾い読みしています。訳したい女流作家がたくさんいるので、あえて官能系の作家を選んで自分にない肉体的な感覚を仕込んでおこうと思って」 何をするにも仕事の影。休暇とはとことん縁がないらしい。 「妻には1ヶ月休みを取って外国に行けと言われるんです。でも、2日休んで箱根に行った方がいいですね」 東江さんに必要なのは、ヴァケーションではなく骨休みのようだ。 インタビュアー:金田修宏(2000/2/1) |